Sunday, May 03, 2009

Otto Dix



Otto Dix (オットー・ディックス)
1891年12月2日ドイツの当時Untermhausと呼ばれた、現在のゲーラ市(Gera)生まれた画家、版画家。
ワイマール体制と戦争の残虐性の冷酷で厳しく現実的な描写で有名であり、ジョージ・グロス(George Grosz)と共にノイエザッハリッヒカイト(Neue Sachlichkeit、新即物主義)の最も重要な芸術家のひとりと目されている。

幼い頃、いとこで画家のフリッツ・アマン(Fritz Amann)のスタジオで過ごしたことで、芸術家への憧れを抱く。
1906年から1910年にかけ、画家のCarl Senffの下で風景画を描き修業期間を過ごした。
そして1910年、ドレスデン芸術大学(Hochschule für Bildende Künste Dresden、Dresden Academy of Fine Arts)へ入学。

第一次世界大戦が勃発すると、オットー・ディックスはドイツ軍の志願兵として戦線へ。ドレスデンの野戦特科連隊に配属された。 1915年秋になると、西部戦線の機関銃隊の下士官としてソンムの戦い(Battle of the Somme)へ参加。何度か重傷を負う。1917年、ディックスの部隊はロシアとの交戦終了まで東部戦線へとまわされた。西部戦線へ戻ると、1918年春季攻勢(カイザー戦、Spring Offensive、Kaiserschlacht、Kaiser's Battle)を戦い抜き、ディックスは第二級鉄十字勲章を授与され、下級曹長へ昇進した。

1918年末、ディックスは故郷のゲーラへ帰郷。翌年には勉強のためドレスデン芸術大学へ再び戻った。
翌1919年、年明け早々にドレスデン分離派(でいいのか? Dresden Secession)を結成。創立メンバーは、Otto Dix、Conrad Felixmüller (Vorsitzender)、Wilhelm (Will) Heckrott、Constantin von Mitschke-Collande、Otto Schubert、Lasar Segall、Hugo Zehderの7人である。

1920年、ジョージ・グロスに出会い、ダダの洗礼を受けた。その影響は、作品にコラージュ要素を取り込むという形で現れる。そして早速幾つかの作品を6月24日からベルリンのオットー・ブルヒァルト画廊(Kunsthandlung Dr. Otto Burchard)で開催される「第1回国際ダダ見本市 "Erste Internationale Dada-Messe"」展へ出品 (ちなみにこの展示会のカタログのエディターを務めたのは、あのジョン・ハートフィールド(John Heartfiel)とその兄ヴィーラント・ヘルツフェルデ(Wieland Herzefelde)。表紙がカッコイイ)。この年、ダルムシュタットで開催された「ドイツ表現主義 (ドイツ表現派) "Deutscher Expressionismus"」 展にも参加した。
1923年に完成することになる作品、『塹壕 "Der Schützengraben (The Trench)"』の制作を開始したのもこの年のことである。

1923年、マーサ・コッホと結婚。

大戦後、ディックスは活発に活動をして入るが、戦場の体験やそこで見た光景は、ディックスに非常に大きな精神的な後遺症を残す。戦火の中、破壊された家々の周りを這い回っているという光景が夢の中で何度も繰り返され、この悪夢について後に語ることになる。希望を抱いて戦争に参加した芸術家が、後にどのような道を辿ることになるのか、これまでも何度か過去のエントリで触れたことがあったが、オットー・ディックスも辿るべき道を辿るべきして辿ることとなってしまった(などと今現在の視点で分かった様なことを言ってしまうのはたたの傲慢でしかないのだが、つい、この時代の人たちって、行動がテンプレ化してるよなと思ってしまうのだ。もちろん、そんなことを書いている自分も(ry......ってことになるのだけど、メタ遊びは疲れるのでこの辺にしておこう)。ということで、ディックスは、トラウマとなる従軍経験を多くの関連する作品で表現し、この中には1924年に刊行した『戦争 "Der Krieg"』というエッチング50点も含まれている。

『戦争 "Der Krieg"』を刊行した1924年、ディックスは1899年に結成されたベルリン分離派(Berliner Secession)に参加。
翌年、美術館を巡回中だった作品『塹壕 "Der Schützengraben (The Trench)"』が元でひとつの騒動が起きる。この作品はディックスの戦争体験による反戦感というか厭戦感というか、そんな感じのものが反映された作品で、1925年にケルン市のヴァルラフ・リヒャルツ美術館がこの作品の購入をしようとしたところ、市長のコンラート・アデナウアー(Konrad Adenauer)がこれを良しとせず、購入を中止に追い込み、美術館の館長は辞任を余儀なくされた。このコンラート・アデナウアーは戦後、西ドイツの初代連邦首相を1949年から1963年に渡って務めると共に、1951年から1955年にかけて外相を兼任した人物。

この騒ぎのあった1925年、6月14日にマンハイムのマンハイム美術館で、「ノイエザッハリッヒカイト (新即物主義) "Die Neue Sachlichkeit"」展が開催された。「ノイエザッハリッヒカイト」と命名したのは当美術館の館長、ギュスターフ・フリードリヒ・ハルトラウプ(Gustav Friedrich Hartlaub、Gustav F. Hartlaub、G.F. Hartlaub)である。ディックスは、George Grosz, Max Beckmann, Heinrich Maria Davringhausen, Karl Hubbuch, Rudolf Schlichter, Georg Scholz、そのほか多くの芸術家の作品をフューチャーしたこの展示会の貢献者だった。と、Wikipediaに書いてあるのだが、どういう貢献をしたのかがさっぱり分からない。
この頃のディックスの作品は、友人であり、仲間内のベテランでもあるジョージ・グロスのそれの様に、現代のドイツの社会にとても批判的で、しばしばルストモード(Lustmord、快楽殺人者)や色情殺人者的な行為を強調した。 売春、暴力、老年、そして死について容赦なく表現し、人生のより荒涼とした側面に注意を向けたのだった。

1926年にハンブルク出身のジャーナリスト、シルヴィア・フォン・ハーデンをモデルに肖像画『ジャーナリスト、シルヴィア・フォン・ハーデンの肖像 "Porträt der Journalistin Sylvia von Harden (Portrait of the Journalist Sylvia von Harden)"』を描く。疲弊し、歪み、澱んだ時代の空気が凝縮された、凄い傑作で、見ていても元気になるとか、ウットリするとか、そういったことは全然ないのだけど、大好きな作品。シルヴィア・フォン・ハーデンは、1894年3月28日生まれ。ジャーナリストとしては、ドイツやイングランドの多くの新聞に寄稿していたという。ただし、シルヴィアが最も有名であるのは、オットー・ディックスの作品のモデルとしてである、とWikipediaには些か厳しいことが書いている。1963年6月4日イングランド東部ハートフォードシャー州のワトフォード近くの田舎町クロックスリー・グリーンで亡くなった。

1927年からドレスデン美術アカデミーの教授の職にありつく。
1928年には、ディックスの最も有名な作品のひとつを制作。トリプティック(triptych、 三連祭壇画)である『メトロポリス "Großstadt (Metropolis)"』は、邦題や英題にすると、前年に公開されたフリッツ・ラングの映画と同じタイトルになるが、映画の様な未来や体制の対立を描いた作品ではなく、敗戦のショックと経済破綻を直視することを避け、夜な夜な終わらないバカ騒ぎに興じる人々とそれを許しているワイマール体制の今現在の堕落を皮肉に描いた大作であった。

1932年、脂の乗り切っているディックスは、『メトロポリス』と並ぶトリプティックの傑作『戦争 "Der Krieg"』を完成させた。しかし、社会体制は日に日に思わしくない方向へと向かってゆく。
1933年に国家社会主義ドイツ労働者党((NSDAP、 Nazi Party)が政権を掌握すると、オットー・ディックスは頽廃芸術家の烙印を押され、ドレスデン美術アカデミーの教授の座を追われた。ディックスは、ドイツ、オーストリア、スイスの国境にまたがるボーデン湖畔へ「内的亡命 "Innere Emigration"」をせざるを得なかった。また、様々な国からやって来ていた芸術家たちがドイツ国外へと逃げ出し始めたのもこの時期から。

そして1937年がやってきた。
ディックスの作品は、「頽廃芸術」、"gemalte Wehrsabotage"(英語に自動翻訳するとpainted Defense sabotageになるが、塗られたディフェンス・サポータージュって何?意味が分からない)と中傷され、美術館から260点もの作品が押収される。この押収された作品は後に勝手に競売に掛けられ、一部は焼却処分されることになる。
7月19日、ミュンヘン大学付属考古学研究所の2階建ての建物で、後に悪名を残すことになる展示会「退廃芸術展」が始まった。競売や焼却を免れたディックスの作品は、頽廃した芸術の見本のひとつとして、この展示会で展示されたのである。

1939年11月8日、ヒトラー暗殺を目的とした暗殺未遂、ビアホール「ビュルガーブロイケラー "Bürgerbräukeller"」爆破事件が起きる。この暗殺未遂事件は家具職人ヨハン・ゲオルグ・エルザー(Johann Georg Elser)が計画し実行したもので、この事件に関わったという身に憶えのない理由でディックスは逮捕される。調べてみると、

1939年、ヒトラー暗殺未遂事件で犯行に加担したとして知識人が一斉検挙されたが、彼はこの際にドレスデンの警察に1週間ほど拘禁された。(Otto Dix)

ということらしく、ディックス以外にもまだ理不尽に逮捕された人たちがいた模様。

第二次世界大戦では、国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)として徴兵され前線へ送られるが、フランス軍の捕虜となり、そのまま終戦を迎えた。


1969年7月25日、オットー・ディックスはドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州(Land Baden-Württemberg)南部の町ジンゲン(Singen)にて死去。

ここまで長くなるとは思ってもいなかった、誰得のエントリだが、楽しかったので良しとしよう。

ポストしたのは、"Großstadt (Metropolis)"の中央部、そして、"Porträt der Journalistin Sylvia von Harden (Portrait of the Journalist Sylvia von Harden)"の2点。

Wikipedia
Otto Dix
accords-27grand.jpg (JPEG 画像, 1198x544 px)
Art by Otto Dix

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